こだわりのいっぴん

二代初弘の実弟佐藤巳弥治さんの鉋


最近、鉋のことで問い合わせがあって、度々、初弘三代目(星野文一郎)さんと電話で話をすることがありました。

そんなある時、「佐藤さんの所に、昔造った鉋がいくらか残っているらしいよ。あんた、行って、買って置いた方が良いよ。」と言われました。切れる鉋を探しているのに、灯台下暗し・・・、佐藤さんはもう廃業されたのでそういう発想をしなかったのです。

佐藤さんの鉋なら絶対に切れるのだから、と思って早速電話しました。

佐藤さん「商売を止めてから25年も経ちますので、残しておいた鉋と言われると・・・・、実は、鉋は刃先に焼が強く入るため一裏使った頃から切味が出る場合が多いのですが、それを待ち切れずに返品になったものや、使い方が悪くて返品になったものが幾らかあったのですが、お客様から、どうしても貴方の鉋が欲しいと言われて、ポツポツ売っていましたので、まだ少しはあるかな・・・、ご希望でしたら物置を探してみます。」と言われました。

そして、15/5/25日にご訪問して来ました。

次が、その時の佐藤さんです。
現在84歳とのことですが、まだかくしゃくとしておられ、元々、三条の職人さんには珍しく、鍛冶屋さんというより大学教授という感じの方なのですが、この写真からも、それを感じて頂けると思います。

当日、わずかな良品と、返品になったものを手入れして研ぎ直したものなど、40数枚の鉋を全て購入して来ましたので、追々ご紹介し、売れるものは一丁々々詳しく説明しながら販売して行きたいと思っています。

ここではその時に聞いた話をご紹介します。

「初代初弘の星野三吉は私の叔父にあたり、元々子供がなかったので、後に二代目初弘を継ぐ兄の文作と私との間のもう一人の兄、三作が5歳の時に養子に入っていて、鉋鍛冶の修行もしたのですが、後で折り合いが悪くなって家を出るんです。
文作と私は学校を出てから弟子に入ったのですが、三作が家を出たために、兄の文作が二代を継ぐことになりましまた。
三作は独立して『』銘の鉋を打って、一頃は職人を何人も使って盛大にしていましたが、彼の嫁が私の家内(佐藤家)の母の実家(丸山家)の出でしたので、そっちの方でも私共と因縁がありました。
  しばらく前のことでした。
  私のホームページをご覧になった方からお問い合わせがありました。
 
  「初行という鉋をご存じないでしょうか。」ということで刻印の写真を頂きましたら、このページの下方にある、
    この三作の作った初行鉋の銘と同じ刻印でしたので、比べて頂く様にご返事したところ、概略次のようなご返事を
    頂きました。
  一山幾らで買った鉋の中に、この初行の鉋があり、とにかくよく切れるので最後の仕上げの時に使うのですが、
  減っているのでもったいなくて使いたくないのに、切れものだからつい手が出て使ってしまうんです。
  それで、同じ鉋が無いかと探しているところでした。
  というもので、もう作っていないとお知らせしたら、とても残念がっておられました。
 
  佐藤さんの鉋と金井の鉋の切れ味については絶大な人気を頂いていますが、同じ初代初弘から指導を受けて修行を
  しているので当然のことながら、この初行も切れたのです。
  初弘とその一派の鉋が如何に切れたかを証明しているような話だったと考えています。(18/5/4記)
私は昭和二十二年に、この佐藤家に婿に入って鉋職人として独立しましたが、当時、初弘の磨きが230円、普通品が210円の頃でして、お宅のご本家のk商店を出られたTさんに『初弘』は有名品だが、あんたの鉋はまだ無名なんだから初弘の値段の100円落ちさ、と値付けされて価格が決まりました。」とのことでした。

「それで、お宅へは『恵比寿・大納言』印で納め、お宅の本家のK商店さんへは『熊次郎』印、Tさんへは印、A商店さんへは印として、それぞれ別のマークで納品させて頂きました。
この内、と、もう一つ『』印の三つを商標として登録していました。
の銘は、家内の父が30歳で若死にしたのですが、伊之助に弟子入りした鋸鍛冶でして、名前を佐藤と言いましたのでそれを記念して、登録商標として登録したものですし、鉋に時々『鯛』のマークを打っているのは、義母がタイと申しましたので、それに掛けてこのマークを使っていました。
お陰さまで、約25年前に商売を止めて二代初弘の後に三代目の指導のために勤めることになるまで30年間仕事をしていて、仕事が途絶えることがなかったのを慶んでいます。

昭和24年に、三条市の市制15周年の記念事業として職人の造る大工道具の品評会があり、当時、三条の腕に自信のある鍛冶屋さんがほとんど出品したのですが、私も出品して鉋の部門で最高賞の市長賞を頂きました。
後で、岩崎航介さんが私共を訪問され、鍛冶場を見たり、いろいろ話をして行かれた時に、当時審査員をされていたことから、その時の裏話をされましたが、三条の鉋鍛冶で伝統のある初弘を差し置いて貴方の作品を選ぶに当り、初弘は「別格」として審査の対象から外して展示することにしたんです、との事でした。鋸の場合は伊之助が別格にされたそうです。」

私が金井芳蔵さんについてお尋ねしたら、「私より13歳年上の兄弟子でして、現在97歳のはづで、お歳ですから昔ほどお元気ではないけど、今年も年始にお邪魔しましたがご健在です。本来自信家のお方なのですが、現役の頃によく遊びに来られて、私の鉋を何時も褒めて下さっていました。」とのことでした。(注意、その後芳蔵さんは平成17年に数え年100歳でにお亡くなりました。18/1/18記)

     最近、私のお得意さんに、金井さんが昔作った鉋がありましたので掲示板にカキコしたら、欲しい方が
     あってお世話しました。
   ついでに写真を撮りましのたで載せてみました。裏金は共裏でしたが銘が切っていなかったので最近切
     ったものです。
     二枚ありましたが、いずれも売約済みですので販売は出来ません。-です。
また、仕事でも少しでも手際よく、良い製品を作れるように工夫をしておられたようです。
「鉋の表は台と馴染むように、ゆるくカーブが付いており、以前は銑(せん)で削っていたのですが、私が機械で削れるように椀型砥石を使って装置を作ったのです。2台作って、一台は金井さんに納めました。後に、地元の機械屋さんと砥石屋さんが尋ねて来て、同じ機械を作らせて貰えないかと言いますので、別に特許を取った訳ではないので造っても良いですよ、と言いましたら15台作って鉋鍛冶へ販売されたんです。
私は工夫しながら手造りしましたので1台で13万円ほど掛かったのですが、それを購入した人は8万円くらいで買えたようです。
私の使っていた機械は廃業の折に、金井さんに差し上げました。
それと、裏鋤の機械も自分で作りましたし、他にも工夫して工場にさまざまな機械がありましたが、全部私が一人で順番に使いましたので遊んでいる時間が多かったのが勿体無かったです。」

私が今回購入して来た鉋の中に上記の銘の鉋が全てありましたので次に銘を並べました。恵比寿の鉋は下には表示がありませんが、当社の別のページにあります。こちらから御覧頂けます。
鯛のマーク以外は、それぞれをクリックすると鉋刃の全体の写真をご覧頂けます。
順番は、左上から大、小、、三作の、そして鯛です。


佐藤さんの鉋は、販売品と非販売品を追々ご紹介します。


追記
その日、佐藤さんとの話しが終った時のことでした。
佐藤さんご夫婦は、元々、仲の良いご夫婦で、最初から奥さんが同席しておられたのですが、佐藤さんの仕事の話が終るのを待っておられたように、奥さんが、次のような話をされました。

「私の父は、先ほどの話のようにと言いまして鋸鍛冶で30歳で若死にしたのですが、私には兄が一人いまして、若い時に、母の実家の鋸鍛冶丸山富五郎家に奉公していました。
 そこへ外栄さんが満州の牡丹江に支店を出すので、鋸の目立てと修理の出来る職人がいないかと言われた時に、「俺が行く。」と言ってみんなの反対を押し切って行ったんですよ。
 その後、戦争になって、現地で召集され、体格が良かったので甲種に合格して戦死しましたので、我が家には男手がいなくなりましたので、母が野菜を売って私を育ててくれたのですが・・・、その時の兄の給料が、私共へ来なくて雇い主の丸山家へ送金されたんです。戦時中でしたので、その頃、不景気だったのですが、実家の丸山家では送金される兄の給料だけで生活出来たそうなんてす。」

昔の事ですので、恨んでおられるのではなく、そんなことがあったんですよ、という感じでお話になっておられました。
昔の奉公というのは、年期明けするまでは雇い主に権利があったというとが解った次第です。
これらの話から、佐藤家と当社は、当時から関係が深かく、長いお付き合いであることが解りました。

当社の満州との関係は次のページに詳しく書いてありますのでご興味のある方はご覧下さい。ここからお入り下さい。

そう言えば、私が子供の時に父に連れられて年始廻りに付いて行くことがありましたが、必ず丸山富五郎家にも行きましたので・・・、後で、問屋が仕入先の鍛冶屋さんに年始に行くほどだから余程力のあった鍛冶屋さんだったんだな、と思った事がありました。

それやこれやで、佐藤家と私共とはさまざまな因縁があったことを改めて教えられた次第です。

次の写真をクリックすると佐藤さんの鉋の売り物を御覧戴けます。



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